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考古学ニュース”巣山古墳(奈良県広陵町)葛城氏の王墓 [歴史と旅]

 奈良県広陵町に巣山古墳という大きな前方後円墳があります。

その古墳から大型木製品が出土して話題になっています。

『奈良・巣山古墳、前例ない大型木製品が出土』
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20060222i112.htm

 出土したのは船の側板形や棺の蓋形木製品などです。
木製の船は埋葬前に遺体を仮安置(通夜)する「殯(もがり)」から古墳まで運ぶ霊柩船とのことです。
古代の葬送儀礼の流れを解明するのに重要な発見となりました。

 巣山古墳は全長約220メートルの前方後円墳,古代史の専門家は5世紀頃このあたりを本拠として大王(現天皇)に匹敵する勢力を誇った葛城氏の王を被葬者として想定しています。

 これまで,王墓は大和(奈良県)の三輪山麓(桜井市付近)から佐紀(奈良市北西部)へ,さらに河内(大阪府)へ移動し河内王朝となったという考えもありました。そのため,葛城氏は大王家と「並ぶ」,「匹敵」するという表現が多く使われてきました。

 しかし,最近では大和・河内の連合政権があり,葛城氏もその政権の一部を担っていたのではないかと言われ,その王墓として巣山古墳を評価する考えがあるようです。


考古学ニュース ”塚穴古墳(羽曳野市)” 聖徳太子の弟の墓か [歴史と旅]

来目皇子(くめのみこ)は厩戸皇子(聖徳太子)の弟,
新羅を攻めるため将軍に任じられ,途中,九州で没したといわれている。
ニュースには蘇我馬子の墓といわれている石舞台古墳と酷似とあるが,
外戚関係にあったのだから当然というべきか。

「塚穴古墳 大規模外堤確認 聖徳太子の弟の墓の可能性強く」

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060120-00000008-maip-soci


地図を片手に72年に一度の地を歴史地名紀行 金砂郷 [歴史と旅]

 数年前,茨城県北部の山間,東西の金砂郷神社で72年に一度の
大祭“礒出大祭礼大田楽”が催された。

この祭りの起源は西暦851年,今回は第17回目で1,100年以上の歴史をもつ。
この歴史的大祭に触れようと地図を片手に出かけた。
その際,気になる地名を見つけたので少しだけ紹介する。
 常陸太田市,金砂郷町周辺の歴史は古く,興味ある地名にも出会う
ことができる。常陸太田の街に“馬場”という地名がある。
この辺りから興った源氏の名族佐竹氏が築いた太田城の馬場に位置して
いたのであろうか,近くにある八幡神社は源氏の守護神だ。
 佐竹氏の祖は武士(もののふ)の尊敬を一身に集めた,あの八幡太郎,
源義家の弟で新羅三郎と呼ばれた源義光,兄義家が蝦夷地で苦戦して
いると聞き,京の都から官位を辞して駆けつけた兄思いの弟である。
皮肉にも後世,義家の子孫,源頼朝と義光の子孫,佐竹忠義がこの地で
戦うことになる。その際,忠義の弟,秀義は天然の要害,西金砂神社の地に
城(砦)を築いて頼朝と戦っている。


勝者,源氏嫡流はその後途絶え,敗者,佐竹氏は水戸を経て羽後,秋田の
地で続いている。歴史の因縁とは不思議でならない。
ちなみにこの付近を流れる川は源氏川,歴史を見つめ続けながら流れている。
 八幡神社から北に向かったところに“誉田”の地名が見られた。誉田とくれば
誉田別尊(ホムダワケノミコト)のちの15代応神天皇,そして応神天皇は
八幡神である。誉田の地名は応神天皇稜に近い大阪府羽曳野市にもみられる。
 ここから金砂郷町に向かう。“金砂郷”なんとも想像をかきたてる地名だ。
金(鉄)の砂,砂鉄の取れた地名にも読める。そういえば途中に鉄に関連する
“玉造”の地名が見えた。古代この辺りはタタラ製法による鉄に関係して
いたのかもしれない。常陸の国名は“直道(ひたみち)”蝦夷地に直接向かう
道から由来するとも言われている。この地で生産した鉄器を武器とし,
鹿島神宮,香取神宮の軍神に守られた軍団が蝦夷地に向かったのであろうか,
宮城県生まれの私は複雑な想いで古(いにしえ)を振り返ってみる。
 地名とは謎解きのごとく考えさせられるものだ。
いつも小さな旅をしながら小さな地名に想いを馳せるたび,
旅に出て良かったとしみじみ思う。


歴史と旅 わたしの師は”宮脇俊三氏”です。 [歴史と旅]

”宮脇俊三”氏,と聞くと鉄道ファンにとっては神様のような存在ではないでしょうか。
鉄道ファンではないけれど
”歴史”ファンのわたし,実は歴史,そして作文の師は宮脇俊三氏です。
もちろん,わたしが勝手に”師”と言っているだけです。

宮脇氏の著書で「古代史紀行」という本があります。

内容は古代から奈良時代までの歴史遺産,遺跡を年代順に旅し紹介するものです。
(年代順にたどるため奈良には何度も足を運んでます。それもご愛嬌)
魏志倭人伝の国ぐに対馬から,北部九州,大和,河内,下野までも・・・

宮脇氏の文章はさりげなく,そしてユーモアがあり後味の良いものです。

歴史に関する知識は相当のものですが,けしてそれを文体に表しません。
むしろ,読者は”もっと掘り下げて欲しい”と思うようなところを
あまり評論することもなく,飄々と紹介して切り上げます。
さわやかな文章で,しかも目線が読者と同じ位置,歴史を楽しく読ませてくれます。

わたしも師のような文章が書けたら良いのですが・・・もちろん,一生無理です。
書けなかったら読むしかありません。
もう何度も読み返しているので,ぼろぼろになった宝物の本を今夜も開きます。

ところで,師が一躍有名になった鉄道ファン垂涎の本はこちら。

当時の国鉄がこの本をヒントに「いい旅チャレンジ2万キロ」のキャンペーンを
はったと言われています。


ちょっとだけ 大阪,地名の旅 [歴史と旅]

 今日の話題は“地名”,歴史好きには避けて通れない話題です。
というより地名そのものが歴史を語ってくれています。
最近になって名付けられている地名は土地と関係ないきれいな地名や,
合成した無難なものが多いですね。悲しいかぎりです。

さて,地名
今回は出張で行った大阪の街を紹介しながら,地名が語るものを推理してみます。
 新幹線から乗り換えて下り立ったのは大阪駅,梅田の地です。
この地名は“埋田”から転化したもので,入り江が埋め立てられた
地名といわれています。
すぐそばに,お初天神(曽根崎心中)で有名な“曽根崎”の地名があります。
“ソネ”は痩せた土地の意味ですから当時は開墾に苦労したことでしょう。
“中曽根”,“大曽根”などは全国に散見する地名です。
ここで気づかれた方も多いと思いますが,地名と名字は密接な関係があります。
もっとも名字は“名田”という地名からきています。
その地に根ざした人達が地名を名字にして家を興しているのです
(“苗字”とは本来の意味合いが違います。苗字は家系・氏族と関わりがあります)。

 梅田から電車で天王寺駅に向かいます。
もちろん聖徳太子に関係する『四天王寺』に由来しています。
ここは阿倍野区,“アヘ”とは“饗”の意味で魚などを神に供した場所の意味です。
古代はこの辺りまで潟や内海がありました。古墳時代の大阪は一大開拓地です。

   古代大阪平野(大阪府)

 翌日、仕事で淀川に行きました。
“淀”の意味は川水が合流して水が“澱む所”という意味があります。
当然流れも緩やかなので鉄道や高速道路がない時代は水運,運輸の大動脈でした。
ただし、現在の淀川は直線的です。

   現在の大阪平野(国土地理院)

 いまの淀川は人工的に開削された放水路で、本来の淀川は南に蛇行する
大川あたりに位置していたと思われます。
途中、中之島があるので大きな舟は難儀したことでしょう。
むかしの淀川は多くの分流を持ち川中に凸凹の地もたくさんあったのでしょう。
そのため大阪は現在でも“島”の付く地名が多いのです。

 ところで大阪は難波の地と呼ばれています。
これは潮流の早い“波速”の意味があります。古代の人達はその潮流に乗って
大阪の地に上陸し,この地に文化を根ざしたのでしょう。
またある人達はその奥にある奈良,滋賀,京都の地を目指したことでしょう。
 
地名を眺めただけでもこれだけ歴史に想いを馳せることができます。
日本に生まれて・・・ちょっとだけ幸せ気分に戻りました(笑)


氷川神社(東京板橋区) [歴史と旅]

2006年,元朝参り・・・さてどこに行こうか・・・と思案をめぐらした結果,
地元板橋の鎮守様というべき氷川神社(東京都板橋区氷川町)に
お参りすることにしました。

玄関先で聞こえてくるのは帝京高校サッカー部の新年初練習のかけ声・・・
関口選手(もちベガルタ仙台)いるのかな?・・・などと思いつつ江戸4宿のひとつ
中仙道,”仲宿”を横切って氷川神社に向かいます。

  (氷川神社 参道)


  (板橋氷川神社 拝殿)

ここ板橋氷川神社,武蔵国の一宮,”大宮氷川神社”から分祀されたものです。
ご祭神は素盞鳴尊敬(すさのおのみこと)と稲田姫命(いなだのひめのみこと)
,大宮氷川神社には大己貴命(おおなむちのみこと),
すなわち大国主命(おおくにぬしのみこと)も祀られているのですが,
ここ板橋氷川神社には祀られてません。

   (板橋氷川神社 案内板)
何故でしょう・・・謎

ちなみに氷川神社は出雲の国津神(くにつかみ)系で,
氷川は斐伊川に由来します。
(すさのおのみことが退治する”やまたのおろち”は斐伊川の
氾濫とする説もあります)

さて,今回は元朝参りついでに健康祈願の”お祓い”をしてもらいました。

  (お祓いを待つ間に拝殿の中から本殿を撮影)

  (お祓いして頂戴したもの)

お神酒が・・・まぁ,今年も元気で頑張ろう!!

そうそう,
氷川神社のそばを流れる”石神井川”には”ゆりかもめ”が舞い降りてました。


歴史と旅 舟塚山古墳 [歴史と旅]

「歴史と旅」ということでブログを立ち上げたのに,どうも話題がベガルタ仙台に
流れ続けていました(反省)。
シーズンオフということもあり,これからは本題を多く取り上げたいと思います。

 私は何故か昔から地図を眺めながら旅するのが好きだでした。
そして地名や地形から歴史に想いを馳せ,いつか地図を片手にぶらり全国の
史跡を巡り歩いてみたいと考えていました。

 今回は,一昨年まで住んでいた茨城県つくば市にほど近い石岡市にある
古墳時代の前方後円墳のお話しです。

 古墳時代の遺跡はと思いつつ常陸国(現茨城県)の中心,石岡市周辺の
地図を眺めていたら「舟塚山古墳」が目に入りました。
2万5000分の1地形図でも古墳と分かるのでかなりの大きさです。

 地名や地形に触れるには電車,バス,徒歩による旅のほうが周りの風景を
眺められ,地図とも対照できるのですが,今回は時間がないので車で行く
ことにしました。
ちょっと値段は張ったけども無理して取り付けたカーナビがあるので多少は
地図を眺める気分にもなれるでしょう(^^;

 カーナビで目的地の住所を検索すると付近の地図が表れ,
しかも「舟塚山古墳」と記されている・・・
このカーナビ,なかなかの優れものだ(^^)v
カーナビの案内で国道6号を北上,結構混んでいます。
今も昔も蝦夷地に向かう動脈だと実感。石岡市街に入る手前に橋が架かっていて,
その名も「恋瀬橋」,下を流れる川は「恋瀬川」です。
橋から少し東南の方向で合流するのが「天の川」,ロマンチックな川の名前が
続いています。悲恋物語の舞台にでもなったのでしょうか・・・
その名の由来を想像したくなります。

 まぁしかし,もともと恋瀬川は「越瀬」からの転化らしいです。
霞ヶ浦に注ぐ低湿地を流れる川なので昔から水が溢れることも多かったのでしょう。
天の川は「雨川」,灌漑用水路として利用される川という意味です。こんな解説では
悲恋物語も吹き飛んでしまう。余計なお世話だったと反省する次第m(__)m

 古墳に向かう道は狭いけど車通りは多い。「貝地」,「茨城」,「中津川」と
曰くありげな住所に変わります。旧くから「玉里」や「玉造」に向かう
街道だったのでしょう。この辺りはカーナビの声を頼りに順調に進んでいきます。
しかし,古墳周辺になるとカーナビの声が消えました。
仕方がないので周りの地形を観察しながら地図を頭のなかに思い浮かべ,
勘を頼りに目的地を探します。「舟塚山」というくらいだからこんもり盛り上がった
舟のような小山なのでしょう。

 目指す古墳は幅の狭い,車がすれ違えない小道の向こうにありました。
こんな道はカーナビにも登録されていません。まだまだカーナビには負けないぞ。
勘が冴えたのでちょっとだけ勝ち誇った気分です(^^)v

 舟塚山古墳は大阪堺市にある仁徳天皇陵に比定されている「大仙陵古墳」
に似た前方後円墳,形も整っていて全面芝に覆われていいます。
墳丘も詳しく観察でき,三段に築成された痕跡も確認できます。
後円部の頂は盗掘にあったのか墳土が数メートルほど削り取られていました。
古墳の全長は186メートル,東日本第二位の大きさです。

(上空から「舟塚山古墳」全景)


(前方部から後円部を眺める)

私は測地エンジニア,早速歩測で実測してみました。
物差しは左右一歩ずつの歩幅,複歩で1.5メートルです。
結果,腕いや脚が少し錆付いたようです(^^;
古墳は墳丘や鞍部があるから誤差が出る・・・勝手に言い訳をつくりました。
さて,この古墳の埋葬者は不明です。古墳時代,5世紀後半から6世紀前半
のものと思われ,大きさからこの地方の大豪族で国造(くにのみやつこ)級の
人物の墳墓ではないかと案内板に書いてありました。

(案内板)

古墳の周りには濠がありましたが今は畑に姿を変えています。
後円部の頂から下の畑の形状を追っていくと古(いにしえ)に水を湛えた濠と,
その中に浮かぶ崇高な前方後円墳の姿が想像できます。古墳から少し離れた
ところには多くの陪塚があり,こちらも畑の海に浮かぶ島々のようです。
ふと山形県の象潟を思い出しました。
それにしても1500年もの間,古墳や陪塚を大切に保存してくれた人々が
いたかと思うと感謝せずにはいられません。高いところから失礼と思いつつ
畑仕事をしているお婆ちゃんに心のなかでお礼と拍手を打ちました(^∧^)

ところでこの古墳,なんと後円部の頂に国の測量用「三等三角点」があります。

(古墳の上の「三等三角点」)

 以前は松林だったそうなのでその頃埋めたものでしょうか?
現在の姿の上に三角点を埋めるのは,なにか恐れ多いような気がします。
古墳の基部に後世,神社を祭るところは多く,舟塚山古墳も鹿島神社を祭っています。
しかし,三角点が祭られている古墳は珍しいのではないでしょうか。
国造りを担った豪族の古墳の上に国造りの基本となる測量用三角点,
なにか因縁を感じてしまいます。もっとも古代の国造りは奴隷達の手による
ところが大とは思いますが・・・。

 この三角点の名称は「高浜」,常陸風土記にも記されている古い地名です。
浜辺が盛り上がった岸に多い地名で,この辺りの地形も霞ヶ浦に突き出した
小高い丘になっています。霞ヶ浦の向こうには「玉造」の地が望めます。
古代、装飾玉などを作った「玉作部」に由来する地名と聞きます。
この辺りは日本史の宝箱のようです。

 古墳からの帰り道,ふと近所の表札を見ると小字が「舟塚」,振り返って
古墳を眺めると確かに舟のような姿です。古墳が霞ヶ浦に向かう形から
地元の人は古くから舟塚山古墳を「入舟」と呼んでいたそうです。
ちなみに近くにある愛宕山古墳は「出舟」とのこと。

 古墳時代から現代まで,霞ヶ浦で漁労に勤しむ人達は,この古墳を
どのような気持ちで眺めていたのでしょう。
馳せる想いは尽きませんがそろそろ日も暮れます。

 帰り道,西には古代からの霊峰筑波山が浮かんでいました。


九州国立博物館 [歴史と旅]

東京,京都,奈良に次いで4番目の国立博物館が九州に今秋開館しました。

場所は福岡県,太宰府天満宮のほど近い山のなかです。
天満宮参道の鳥居にはこんな旗が飾ってありました↓。

博物館は天満宮の境内からトンネルとエスカレーターを使うとすぐです↓。

建物の屋根は”波”を意識しているのかな・・・
大陸文化が海を伝いやってきた,という表現かもしれません。

なるほど,パンフレットのテーマは”海の道,アジアの路”と記されています。

これまでの国立博物館は都道府県名を使っていましたが,
こちらは”九州”と冠していて九州全域を意識しています。
もっとも歴史的にみれば九州は先進地,吉野ヶ里遺跡を始め
すべての県に多くの歴史遺産があります。

展示室は中央の大きな部屋のほかに12の小部屋に分かれています。
これはちょっと観づらい,時代順などを事前に把握しておかないと
部屋を変わる度,歴史を行ったり来たりしてしまいます(ちょっと疲れる)。

わたしが好きな時代は古代史,縄文から古墳時代の展示に興味津々でした。
展示室中央には”宮地嶽古墳(福岡県福津市)”出土の品々が並んでいました。
その横には”魏志倭人伝”ゆかりの品々が・・・

古代の鏡も多く展示してましたね,”平原遺跡(福岡県前原市)”出土の
世界最大の鏡もありました。
展示室内は撮影できないので写真をお見せできないのが残念です。

ところでこの博物館,1階にホールがありました↓。

なんと,この日は”邪馬台国と吉野ヶ里遺跡(佐賀県三田川町)”
関係の講演が・・・これだったら一日いても飽きません(笑)

お土産に”三角縁神獣鏡”の根付けを買いました↓。宝物です(^^)v

なお前日の夜は博多でお約束のモツ鍋食べました↓。
やっぱり本場の生から煮込む鍋はウマかった!!


秋 紅葉 京都 [歴史と旅]

 紅葉といえば京都を思い出します。
わたしは京都の某大学に籍を置く勤労おじさん学生なので秋にも京都に行く機会が多いで
す。
もっとも今年はベガルタ仙台の応援でスクーリングもさぼりまくりですが・・・反省

 この時期,京都は観光客が特に多いので宿を確保するのも大変です。
旅行される方は早めに宿を確保してください。

 今年の写真ではありませんが,

 滋賀県大津市「三井寺」近辺から見た琵琶湖方面の風景,真ん中に細く流れているのが琵琶湖疎水,その向こうが湖です。
湖水が山の中をトンネルで通り京都に注いでいます。
こちらが三井寺の紅葉

 京都側は南禅寺だったでしょうか。レンガの水道が頭上を通っていましたね・・・記憶が不安f^_^;
(よく俳優の船越栄一郎のドラマに出てきます)
こちらは「もみじの永観堂」ほど近くのお寺の庭園

 永観堂といえば「見返り阿弥陀様」で有名です。あまり大きな仏像ではありません。振り返って見てわたし達を見守ってくれている可愛い阿弥陀様です。


  (永観堂HPより)


奈良,山の辺から明日香(飛鳥)まで [歴史と旅]

以前,山の辺の道を石上神宮から大神神社まで歩きました。
そして飛鳥の辺りをうろうろ

スタート地点は石上神宮
物部氏に係わりのある神宮です。
本来は本殿はなく禁足地に宝剣が埋められていたそうです。
その宝剣,七支刀は古墳時代の朝鮮半島南部の製品です。

さて,山の辺の道,まさに古代史探訪の道ですね,
右も左も古墳や古社があるわあるわ・・・
そういえば,かの浅見光彦探偵?も考古学にちなんだ
殺人事件でこのあたりの古墳に訪れていました。


この写真,桜井市の大神神社にたどり着く少し前にある
檜原神社の鳥居です。三つ鳥居という形の珍しい鳥居。
もともと神として祀ってあるのは後方の三輪山ですので
本殿はありません。
ま,本殿・拝殿というのは仏教が入ってきてから
その影響で出来たものが多いのだそうです。
大神神社も三つ鳥居があり,本殿はありません。
あるのは三つ鳥居の前に位置する拝殿のみ。
日本の神社の原点ですなあ・・・しみじみ参拝!

さて,しみじみ想いを古(いにしえ)に触れながら
明日香に移動しました。甘樫の丘で明日香を一望し
大和三山や飛鳥板葺宮をチェック!
自転車で高松宮遺跡や天武・持統天皇稜を回りました。


写真は石舞台古墳
蘇我馬子の陵墓といわれているところです。
それにしても大きな石だ!
手前側の石だけで8トンくらいあるらしいです。
古墳は上部が円形,下部が方形の上円下方形と
推察されてますが,その規模は一辺60mを超えて
いたようです。
蘇我氏の権勢恐るべし!の時代でしたねえ・・・


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